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自然散歩のすすめ


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前のページでは "5 Freedoms" のひとつ、

正常な行動発現の自由

を通じて、犬が犬らしく自然に行動するとはどういうことかを考えてきました。
おさんぽを例にとり、犬にとっての自然な行動をいくつかあげましたが、現実の社会の中では行動の発現に危険がともなうこともたくさんあります。

たとえば、人や車の行きかう道を自由に走り回ったら危ないですよね。
においを嗅ぐのに夢中になって、走ってきた車をよけようとしないということも起こり得ます。
自転車や子供、他のわんちゃんを追いかけたら、場合によっては事故につながりますし、追われた相手は怖い思いをしてしまいます。
危険とまではいかなくても、他の人の迷惑になってしまうこともあります。
道に面した花壇を掘られたらお花を育てていた人は悲しむでしょうし、 いくら気持ちがよさそうでも私有地の木陰に入り込んで休憩をするわけにはいけません。
家の前でおしっこをされていい気分の人はいないでしょう。
迷惑をこうむった人の対応によっては、怒鳴られる・蹴られる・訴えられるなどして、結局は犬が危険にさらされる可能性もあります。

この社会にはわたしたちと犬だけが暮らしているのではありません。
社会にはルールがあって、それが犬にとって最善のものであるかどうかということとは別に、ルールを守って暮らしていく義務が、少なくとも人間であるわたしたちにはあるはずです。


では、「犬が犬らしく自然に行動する自由を守りたい」と考えるわたしたちはどうしたらいいのでしょうか。

社会のルールを変えるよう運動するのもひとつの方法だと思います。
危険は覚悟の上でルールを無視するという選択もないわけではありません。
しかし、わたしにとって前者はキャパシティーを超えており、後者では長期的に見て弊害のほうが大きいように感じます。
そこで提案したいのが、ルールには抵触しないようにしつつも、犬が犬らしく行動できる機会を作りだすという方法です。 具体的に言うと、犬が立ち入ることを許されており、危険が少なく、ある程度自由に動いても誰の迷惑にもならないような場所まで出かけて行って、そこで思う存分おさんぽをするのです!

もちろん、おさんぽに関することだけが犬の行動ではないのですが、 おさんぽというのは家庭で暮らす犬にとって、毎日の生活の中での一大イベントです。
ほとんどの犬がおさんぽの時間を楽しみにしていると思います。
たとえサークル飼いなどをしていなくても、家の中で受ける刺激やできる行動には限りがあります。
太陽の光を浴び、風のにおいを感じて、リフレッシュする時間はとても大切です。
せめておさんぽのときくらい、わんちゃんのこころとからだを解き放たせてあげましょう。
「自然の中でするおさんぽ」「犬が犬らしく自然に行動できるおさんぽ」の両方の意味をこめて、わたしはこうしたおさんぽを「自然散歩」と呼んでいます。


自然散歩のポイントはふたつあります。

A:自然の中でおこなうこと
B:犬が自然に行動できること

です。
優先度はBが上ですが、AでなければBの安全な実現は不可能に近いと思います。
まずはAの場所を確保し、その上でBの状況を整えていきましょう。

Aですが、「自然」といっても遠くの山や森にまで行かなくても大丈夫です。
わたしとしては、自然散歩は月に数回、年に数回だけのスペシャルなこととしてではなく、日々のおさんぽとして実践することをおすすめしたいですし、実践できるものだと考えています。
負担なく行ける距離に山や森があれば申し分ありませんが、なかなかそういう方は少ないのではないでしょうか。
ここでいう「自然」は、端的に言えば「一般道ではない場所」です。
もう少し詳しく言うと、車が通らず、人が多くなく、ある程度広く、適度に緑があり、犬が歩いてもいい、そんな場所のことです。
住んでいる場所によって、それは川べりかもしれませんし、公園かもしれません。
上の条件を満たせば、場所はどこでもいいと思います。
徒歩や車で気軽に行ける範囲にいい場所はないか、ちょっと注意して探してみてください。
都会だからそんなところない!という方もいるとは思いますが、案外隠れたところにいい場所があったりするものです。
都内にお住いの方なら、都立公園の検索も便利です(こちら)。
ただ、あまり人気の公園だと人が多すぎたり、逆に犬が多すぎたりする可能性もあります。
一度行ってみて、あなたがのんびりできる気持ちにならないようなら、そこはやめましょう。
おさんぽの時間に融通が利くのであれば、行く時間をいろいろ変えてみて、ちょうどいいスポットタイムを見つけるのも手です。

上にあげた条件を満たすにも関わらず、わたしが自然散歩に適さないと考える場所がひとつだけあります。
それはドッグランです。
ドッグランに行くことに反対しているわけではありませんが、ドッグランは読んで字のごとく走る場所であって、おさんぽをする場所ではないと思うのです。
たとえが極端ですが、人間でもジョギングをしにプールには行きませんし、本を読みに映画館には行きませんよね。
もし他に近くにいい場所がないのであれば、走っている他の犬がいない時間帯に行き、おさんぽのために使いましょう。
でも、だいたいの場合ドッグランのまわりは公園ですので、公園の部分でおさんぽをすればよいと思います。

お気に入りのAの場所を見つけたら、次はBについてです。
Aが確保されていること前提なので、車や人などの対外的な危険性についてはひとまず考慮せず、 一緒におさんぽしようとしている人と犬とに焦点を絞って考えていきたいと思います。
自然な状態に置かれれば犬は自然に行動しますので、できるだけ自然な状態に介入しないように、また、自然な行動を阻害しないように気をつける必要があります。


自然散歩をする上で気を付けるポイントはふたつあります。

ひとつは、「今ここ」の状況です。

今、その犬のリードは何cmあるでしょうか。
短すぎるようでは、犬が歩調を速めたときにすぐピンと張ってしまい、犬はそれ以上進むことができません。
あなたは犬を見ているでしょうか。
うわの空で歩いていては、犬が立ち止まってにおいを嗅ごうとしたとき、気づかずに引きずってしまいます。
汚れてもいい格好で来ていますか。
そうでなければ、犬が泥を跳ね飛ばして遊ぼうとしたとき、思わず「やめてー!」と言いたくなるでしょう。
時間に余裕はありますか。
帰りの時間を気にしていては、犬の気まぐれに付き合ってなどいられません。
おさんぽの道順を決めて、サクサク歩くよう犬を誘導したくなってしまいます。

他にも、距離ができると首がしまるようでは犬は自由に歩けませんし、 いちいちリードを引かれたり呼び止められたりしていては楽しみに集中できません。
一緒に走れる靴を履いていなければダッシュをあきらめてもらうほかないですし、 虫が嫌だと言っていては拾ってきた蝉の抜け殻に悲鳴をあげることになりかねません。
ゴロゴロにおいをつけたがりそうなミミズを見つけたとき、そちらに行かせず方向転換してしまうこともあるでしょうし、 うんちの袋を忘れたら、犬を引っ張って逃げるようにその場を離れることもあるかもしれません。 (これは犬の自由云々関係なく許されないことですが…)

人間にとってはいい場所を見つけたと思えても、足場の感触が好みでなかったり、 工事の大きい音がしたり、他の犬が多すぎたりして、犬がリラックスして動けないということもあり得ます。
犬のひとり遊びに割り込んでいくのも、場合によっては邪魔になります。
「あっちに鳥がいるよ」「その草どんなにおいなの?」などと、人としては犬と一緒に楽しみたくもなりますが、こうしたお節介のやきすぎにも注意しましょう。
見るべきところは見つつも、基本的には犬をほうっておく方が望ましいです。
ネガティブ・ポジティブを問わず、自然な状態に不要な介入をおこなっていないか、自然な行動を阻害するような要因はないか、「今ここ」の状況を見極めていきましょう。


もうひとつは「今ここに至るまで」の状況です。

動きやすい服装で、虫でも汚れでもどんと来い!という覚悟を決め、道具・気持ち・場所、すべて準備万端で自然散歩に臨んでも、そもそも動こうとしなかったり、いくら促しても飼い主さんの横を離れなかったりと、なぜか当の犬が自由に動こうとしない場合があります。
まず点検すべきは「今ここ」の状況ですが、いくら考えても思い当たることのないときは、もしかしたら「今ここに至るまで」の状況に原因があるのかもしれません。
かつておこなった不要な介入により、今現在の自然な行動が阻害されているという構図です。

「今ここ」の問題は「今ここ」で問題となっている原因を取り除けば解決することがほとんどです。
「今ここに至るまで」の問題は、原因が過去にあるだけに解決にも時間がかかります。
原因として真っ先に疑うべきは過去のトレーニングです。
飼い主の横をついて歩くことを教えられ、これまでずっとそうしておさんぽしてきた犬に対し、突然「自由にしていいよ」と言ったところで、犬はどうしたらよいのか分からないでしょう。
とりあえずこれまでと同じように飼い主さんの横をついて歩くと思います。
飼い主が犬の行動を待って動き出さないでいると、犬も飼い主の横で飼い主の行動を待っているかもしれません。
この場合、「今ここ」において、飼い主さんは犬の行動になんら干渉をしていません。
犬が自然にこれらの行動を選んでいるようにも見えます。
ですが、これらの犬の行動は自然なものといえるのでしょうか。

結論から言うと、わたしはこれらの行動は不自然なものであると考えます。
より正確には「今ここに至るまで」の状況を再検討して一切原因が見当たらなかった場合に限り、自然な行動であるとみなします。
しかし、本格的にトレーニングをした方はもちろん、特にトレーニングと呼ぶほどのことをしていなくても、 全く、一度も、ほんの少しも、犬に自分の横を歩かせようと試みたことのない飼い主さんがいるとは思えないので、 実際上ほとんどの場合「今ここに至るまで」に何らかの原因を見つけ出すことができるでしょう。


現在の日本では、犬のトレーニングは大きくふたつの方法に分かれています。
ひとつは、人にとってよくない行動を犬がしたとき、犬が嫌がる刺激を与えることでその行動を減らそうとするものです。
警察犬の訓練や、JKC(ジャパンケンネルクラブ)の訓練士さんがおこなうトレーニングがこちらの方法です。
昔からある伝統的な方法で、一般に「強制訓練」と言われています。

もうひとつは、人にとってよい行動を犬がしたとき、犬の喜ぶ刺激を与えることでその行動を増やそうとするものです。
こちらはJAHA(日本動物病院福祉協会)のインストラクターさんたちを中心として、ここ10年くらいの間に日本に広まってきました。
「正の強化法」「陽性強化法」と呼びますが、「ほめるしつけ」と言ったほうが通りがよいと思います。

強制訓練とほめるしつけは、共にスキナーの行動分析学をもとにしており、同じひとつの理論の表と裏の関係にあたります。
強制訓練でも犬がよいことをしたらほめることがありますし、ほめるしつけでは体罰こそ行わないものの、減らしたい行動に対しては犬が喜ぶ刺激をなくすなどして、広い意味での嫌なことを起こす場合があります。
重なる部分が少しもないわけではありませんが、それを承知の上で乱暴に分類すると、 面と向かって犬を叱ることを許しているのが強制訓練、許していないのがほめるしつけ、と捉えてよいかと思います。
飼い主さんが自己流でおさんぽのしつけをしようとしたときは、前に出た犬に「NO!」「コラ!」と言ったり、チョークチェーンを使ったり、強くリードを引っ張ったりしているなら強制訓練よりと言えるでしょうし、 犬が前に出たときに叱るのではなく、そばにきたときに声をかけたり、ごほうびをあげるようにしたりしているなら、それはほめるしつけよりの方法だと言えるでしょう。


"5 Freedoms" の中の、

(3)肉体的苦痛・損傷・疾病からの自由 Freedom from Pain, Injury or Disease 
(5)恐怖および精神的苦痛からの自由 Freedom from Fear and Distress

という項目を思い出していただければ、強制訓練のやり方はそこから逸脱していることが分かると思います。
自分の身に置き換えて考えてみてください。
厳しい口調で叱責されたら恐怖を感じますし、首に巻いた紐を強く引かれることは大きな苦痛でしょう。
そうされていても気に止めない顔をしてずんずん進んでいくわんちゃんも中にはいますが、本人が気にする/しないに関わらず、恐怖や苦痛を与える可能性があると分かっている行為はするべきではないですし、気にしていないように見えても当の犬の内心を外見から決めつけることはできません。
万が一本当に気にしていなかったとしても、首は脊椎や気管、太い血管が通っており、神経系にも関係する非常に重要な部位です。
首を絞めることにより、これらの器官を傷つけ、疾患を招く恐れもあります。 強制訓練は絶対に避けるべき方法であるとわたしは断言します。

では、ほめるしつけはどうでしょう。
きちんとした方法でおこなっているのであれば、少なくともトレーニングに関わることでは、

(3)肉体的苦痛・損傷・疾病からの自由 Freedom from Pain, Injury or Disease 
(5)恐怖および精神的苦痛からの自由 Freedom from Fear and Distress

は守られていることでしょう。
その意味で、わたしは強制訓練よりも、ほめるしつけを支持します。
ですが、

(4)正常な行動発現の自由 Freedom to behave normally

という観点からは、ほめるしつけも強制訓練と同じだと言わざるを得ません。
方法は違っても、どちらにも犬の行動を人間の望むように作り変えようという意志が働いているからです。
そして、この意志のもとで「今ここに至るまで」に行われた人為的な介入が、「今ここ」にいる犬の行動を、自然なものから不自然なもの、作られたものに変えてしまっているのです。


不自然なもの、作られたものが「悪い」ものであると非難したいのではありません。
意図どおりに出来上がっていれば、少なくとも作り手にとっては「よい」ものであるはずです。
作り手の意図を育てたのが社会的通念であるならば、作り手の属する社会においても、それは「よい」ものとされるでしょう。
一方、全く異なる社会においては、全く同じものが「悪い」ものだとされる可能性もあります。
いずれの社会通念が正しい(よい)ものであるかということは、わたしには判断できません。
判断しようとするわたしもまた、あるひとつの社会の中で生きているからです。

いずれにせよ、ある社会の中で「よさ」を目指して意図的に作りだされたものは、たとえ不自然なものであっても、 否、不自然さの完成度が高ければ高いほど、より「よい」ものとして社会の構成員の多くに受け入れられることでしょう。
完成された不自然さは、不自然こそが自然に見える域に達しているものです。
たとえば芸術作品、言語の使用、礼儀作法、スポーツ、社会制度、宗教、医療などなど…。
もはや飼い主さんからの何の合図も必要とせず、「自然に」飼い主さんの横を歩くことを選ぶようになった犬の姿もそのひとつです。


おりこうさんに歩くことを学び、おりこうさんに歩くことしか出来なくなった犬について、 先ほどわたしは彼らの行動を不自然であると言いましたが、彼らは紛れもなくこの社会における「よい」犬です。
「おりこう」という言葉がすでに「よさ」の意味合いをはらんでいることからも分かるように、わたしたちのいるこの社会では、犬が飼い主の横について歩くことは「よい」行動だとされています。
「よい」行動をとれる「よい」犬になったことで、その犬は社会の中で有形無形のさまざまな利益を受けることができます。
飼い主さんは喜んでおさんぽをし、すれ違う人におりこうだと言われ、休暇には一緒に旅行に行けるかもしれません。
逆に犬が「よい」行動をとれるようにならなかったら、飼い主さんにとって犬との時間は辛いものに変わります。
犬に吠え、人に吠え、謝って道を変え、引きずられるように走って…を延々と繰り返すおさんぽでは、飼い主さんは疲労困憊です。
義務として嫌々おさんぽに行くか、場合によってはおさんぽをやめてしまうかもしれません。
せっかくの休暇くらいゆっくりしたいとペットホテルに預けられ、旅行に連れて行ってもらえないこともあるでしょう。
ふつうに考えて「よい」行動をとれる犬のほうがしあわせそうですね。

「よい」行動をとれるように学習することで、その後の日々をよりハッピーに過ごせるのであれば、人間の望むように犬の行動を作り変えていくトレーニングという行為は正当化されるのでしょうか。

まず、いくら「よい」行動を教え、「よい」行動によるより「よい」人生を与えるためとはいえ、 一時的にでも犬を意図的に苦痛にさらす強制訓練は、いかなる成果によってもその過程を正当化することはできないと思います。
その意図がこの上なく善意に満ち、ふるわれる暴力(と、あえて言います)が限りなく軽微なものであったとしてもです。
「犬に暴力をふるおう!」と思ってやっている人はいないと思いますが、気持ちはさておき、個々の行動だけを取り出して考えてみてください。
厳しい声を出すこと、首をしめること、頭やお尻を叩くこと、押さえつけること。 相手を思い通りにしようとして一方的にふるわれるこれらの力の乱暴さ、強制力を考えると、力の強さ、頻度、相手への愛情の有無、相手の受け取り方に関わらず、結局は「暴力」としか言いようがないでしょう。
実際に目に見えるこれらの行為は分かりやすく、また、見ていて気持ちのよいものでもありません。
こうした直接的・身体的な暴力をやめるべきであるという主張は世間的にも同意を得やすいと思います。

一方、ほめるしつけは犬に積極的な苦痛を与えることはありません。
犬が嫌な思いをすることなく、しかも「よい」人生を送ることが可能になるのです。
この場合、「よい」行動と引き換えに失われた犬としての自然な行動は、 この社会を生きる犬にとって必要最低限の損失なのだと捉えることもできるでしょう。

自然でふしあわせな犬と、不自然でしあわせな犬、あなたはどちらを望みますか?
そう聞かれたら、わたしも「不自然でしあわせな犬」を選びたくなります。

でも、ちょっと待ってください。
「不自然でしあわせな犬」を選ぶ前に考えなくてはならないことがふたつあります。
ひとつは、目に見える暴力だけが暴力なのか?ということ。
もうひとつは、不自然な存在になることによってしか犬はしあわせになれないのか?ということです。

長くなりますが、ヨハン・ガルトゥング『構造的暴力と平和』(中央大学出版部、1991年)より引用します。

影響力の与え手が間違いだと考える行為にある人が出るとき、その人を罰することにより、影響力の与え手はその人にたいして影響力を行使することができる。しかしまた、影響力の与え手が正しいと考える行為をある人が行うとき、その行為にたいし報酬をあたえることによっても、影響力の与え手はその人にたいして影響力を行使することができる。...(略)...しかしこれは暴力となにか関係があるだろうか。然りである。なぜならば、この場合にも結局、人間みずからの能力を実現する可能性が効果的に妨げられているからである。それゆえに、現代の多くの思想家が強調するように、消費社会は消費しない人を積極的には罰しはしないものの、消費に熱中する人にたいしては十分な報酬をあたえる社会である。この社会システムは、物質的欲求の追求は幸福を約束するとの前提のうえに成り立つ報酬志向型社会である。しかしこのような社会は人々の行動範囲を狭めるという性質をもつ。この社会システムが、許容範囲を逸脱した行動を処罰することにより人々の行動範囲を制限している社会システムよりもすぐれているかどうかは、議論の余地がある。それは、苦痛ではなく喜びをあたえるという意味ではよりすぐれたシステムであるが、それが操作的な社会で、システムの仕組みがなかなか理解しにくいという意味では、望ましい社会システムとはいえない。しかし重要な点は、暴力概念の認識をこのように広げることが可能だということである。
この文章の「人」の部分を「犬」に、「影響力の与え手」を「飼い主」に置き換えてみてください。

飼い主が間違いだと考える行為にある犬が出るとき、その犬を罰することにより、飼い主はその犬にたいして影響力を行使することができる。しかしまた、飼い主が正しいと考える行為をある犬が行うとき、その行為にたいし報酬をあたえることによっても、飼い主はその犬にたいして影響力を行使することができる。...(略)...しかしこれは暴力となにか関係があるだろうか。然りである。なぜならば、この場合にも結局、犬みずからの能力を実現する可能性が効果的に妨げられているからである。
直接的に苦痛を与えることは当然忌むべきことですが、たとえ直接的苦痛をともなうものでなくても、 相手を思い通りにしよう、より都合のよい存在に作り変えようとして否応なしにふるわれる力は、つきつめれば「暴力」と呼ばれ得るものです。
暴力的であるということで強制訓練を排するのであれば、ほめるしつけもまた、自らの方法に内在する暴力性を自覚しなくてはなりません。
殴ること、蹴ることだけが暴力ではないのです。

とはいえ、不自然な存在になることによってしか犬がしあわせに「なれない」のであれば、暴力の程度をせめて最小限に抑え、 できるかぎりやさしく楽しいやり方で、犬をよりよく、より不自然な存在に作り変えてあげることが、 この社会に犬を迎えることを選んだ飼い主の責務であり、また、犬に対する愛情であるということになるでしょう。
犬としての自然な行動は失われるべくして失われたものであり、この社会をしあわせに生きるために必要な代価であったということです。
ですが、この前提は本当に公正なものだと言えるのでしょうか。
「よい」犬でない犬、不自然でない犬がしあわせになれないとしたら、それはこの社会が、わたしたちが、不自然でない犬をしあわせに「しない」からなのではないでしょうか。


先に、社会的に「よい」とされる意図のもとに作られたものは、その社会の中では「よい」ものとして扱われる可能性が高いと書きました。
社会通念が相対的なものである以上、作られたものに「よい」「悪い」の絶対的な判断を下すことは出来ないとも書きました。
それでは、ある社会の中で「よい」とされる「よさ」とはなんなのでしょうか。
すべてがそうであるとは言いませんが、結局のところ、わたしは「都合のよさ」であると思うのです。

その社会が都合よく回っていくように、社会システム、社会通念は形づくられていきます。
社会は構成員に罰を、あるいは報酬を与えることで、構成員の価値観、行動をより都合のよいものとなるよう導きます。
都合のよさを「よさ」として掲げる社会の構成員たる人間は、その社会の中でよりしあわせに、つまりはより都合よく生きていくことができるように、 周りの人や物や生き物を、自分の都合のよさにとって都合のよいあり方に変えていこうとします。
人間がふたり以上そろえば、そこでは相手をより都合のよい存在にしようという駆け引きがはじまります。
対等な力量を持った人間どうしの駆け引きの範疇にとどまっているのなら、それもいいでしょう。
しかし、それぞれの立場に不均衡が生じるようであれば、ふるわれる影響力は次第に一方的なものとなり、ふたりの関係性はある種の暴力的な側面を孕むことになります。

相手が人間以外の生き物であれば、ほぼすべての場合において、人間の影響力は完全に一方的で不可避な様相を帯びることでしょう。
なぜなら、人間には、都合のよい存在にならなかった生き物を処分するという最終的な力の行使が可能だからです。
人間どうしでも相手の処分という手段に出ることはありますが、人間を恣意的に処分した人間は社会により強力な制裁を受けます。
人間以外の生き物を処分した人間は、他の人間の都合のよさに抵触しない限り、非難はされても公的な罰を受けることはありません。

これは犬でも同様です。
もちろんほとんどの飼い主さんは、「よい」犬にならなかったからといって、その子を処分しようとまでは考えないでしょう。
でも「毎日ご飯をあげているんだから言うことくらい聞いてくれてもいいいじゃない」と思ったことはありませんか。
処分しようと思えばする力がある、することを容認されているというのは、互いの関係性の中にあって非常に大きなことです。
ここまでの力の不均衡があって、犬は不自然な存在にならなければしあわせに「なれない」と言うことは許されるのでしょうか。
わたしには無責任な言い方のように思えます。

犬と人間との関係は、そもそもの立ち位置がフィフティ・フィフティなものではありません。
したがって、犬と人間との間には本質的なギブ&テイクは成立しないと考えられます。
食事、おさんぽ、居住空間の提供、毎日のお世話など、人間が「ギブ」としてカウントする多くのものごとは犬の生存権と直結しています。
これらを与えることは社会に犬を迎えることを選んだ人間の当然の義務であり、犬が今そこにいるということ以外に、犬に対して何らかの「テイク」を求めることは間違っています。
あなたが誰かに何らかのものごとを要求されたとき、その誰かがあなたの生存に必要な何かをいつでも奪い得る力を持っているとしたら、あなたはその要求を拒むことができますか。
人間が犬のしあわせを願って「よい」犬になることを求めた場合、おそらく無邪気に行われるであろうその要求は、わたしにとって都合のよい存在にならなければあなたをしあわせに「しない」こともできるのだ、という脅迫でもあることを理解すべきです。
どれだけやさしい方法を選ぼうとも、このことに違いはありません。

自然でふしあわせな犬と不自然でしあわせな犬。

わたしたちがこのふたつの選択肢しか採用しないでいる限り、わたしたちは当の犬に二者択一をつきつけていることになります。
わたしたちの望むものになって生き延びるか、望むものにならずに死んでいくか、という選択です。
わたしたちにそのつもりがなくても、犬自身がそのことを分かっていなくても、力関係の結果として、自動的にそのような権力の構造が出来上がってしまっているのです。
しかし、犬にとっては二者択一でも、わたしたちにとっての選択肢は実はこれだけではないはずです。
社会システムの担い手であると同時に作り手でもあるわたしたちだからこそ、社会のシステムを冷静に認識し、システムの内包する権力構造を断ち切ることもできるのではないでしょうか。
都合の悪い犬をしあわせに「しない」力を持つわたしたちは、その力をふるう方向を転換「しよう」と決意しさえすれば、都合の悪い犬をしあわせに「する」道を選ぶこともできるはずです。

そうです、
犬が犬自身の望むものとして生きていける場所を作りだすこと、 「自然でしあわせな犬」という選択肢作りだすことも、「しよう」と思えばわたしたちにはできるのです!

不自然な犬が都合のよい犬、思い通りになる犬、おりこうな犬であるのなら、自然な犬は都合の悪い犬です。
「自然でしあわせな犬」をという存在を受け入れるには、不都合なもの、思い通りにならないものを愛するための自覚的な努力が必要です。
無自覚に犬を愛するだけでは、都合のよさを求めることに慣れきったわたしたちは、気づかないうちに「不自然でしあわせな犬」であることを犬に望んでしまいます。

個々の人間のその時々の都合のよさがすべて満たされるわけではないにしろ、人間の社会は基本的に人間にとっての都合のよさを目指して形づくられています。
人間の都合のよさが他の種の都合のよさよりも無条件に優先されること、これはおそらく不自然なことですが、意識しなければそうとは気づかないくらい「自然に」わたしたちの日常に根付いています。

わたしたちが特に意識せず「自然に」犬と関わるとき、犬の自由は「自然と」ないがしろにされている危険性があるものと考えるべきです。
犬の自由よりも自分の都合のよさを優先してはいないか、常に問い続ける気持ちを忘れないようにしましょう。
犬が自然に行動することが人間社会のルールを逸脱したり、自分以外の人間の都合のよさに抵触したりする可能性のあるときは、あなたの工夫でなんとかなるものならば、頭と体と時間を使って問題を乗り越えていきましょう。
おさんぽを自然なものにしようと試みること、自然散歩をするために場所や状況を整えることも、こうした努力の中に位置づけられるでしょう。


犬の自然な行動を阻害しない、犬の自由を守る、だから自然散歩をする!と言ったところで、本当の本当には、言葉の完全な意味では、犬を「自由に」「自然に」することなどできません。
日本ではオフリードのおさんぽは認められていないので何らかのリードをつける必要がありますし、リードがついている以上、ある程度の長さがあったとしても物理的な制約は皆無とはいえないでしょう。
緊急事態を回避するためには呼び戻しくらいは出来た方がいいかもしれませんし、チョコレートを拾ったことに気づいたとき、見て見ぬふりをすることは心理的に非常に困難です。
おさんぽの話ではありませんが、嫌がるからお手入れをしない、痛いから予防注射をしないというのでは、かえって病気になってしまいます。
自然状態はどこまで守られるべきか、犬の自由を尊重するために交通事故や誤食、予防できる疾患による死をも受け入れるべきか、 最終的にはそれぞれの飼い主さんの判断にかかってくると思います。
"5 Freedoms" の他の項目との兼ね合いも考え、その犬にとって最良と思われる決断をなさってください。
ただ、この場合も、自分の都合のよさに流された選択をしていないかどうか、自分を問いただすことを忘れないでください。
自分自身の満足のために「最低限」のラインを踏み越えた介入をしていないか?という点はもちろんですが、毛をとかすのは大変だからいいや、病院に行くのは時間がかかるからやめよう、などという気持ちが少しでもあるのなら、 犬の自由を口実にしつつ自分の都合のよさを優先して不介入という選択をしている可能性もあります。
人間性の階段を降りられるだけ降りて、虚飾のないところで自分のこころの働きを見つめていきましょう。


どうしてもやむを得ない場合、自他の生命に危険が及ぶような場合には、 犬にとっては自然なある行動の発現を阻害するという方法によって問題の解決をはかる必要も出てくるでしょう。
いろいろ言ったところで「最低限の暴力」の行使を認めているではないかと指摘されれば、残念ながらその答えは「イエス」です。
それでも、「不自然でしあわせな犬」を目指すのと「自然でしあわせな犬」を目指すのとでは、「最低限」のラインの位置が大きく変わってくるのではないでしょうか。
「自然でしあわせな犬」を目指す以上、「最低限」のラインは意識して自分に厳しく設定するように心がけましょう。
どのような形の介入であれ、それが暴力であることを自覚した上で、出来るかぎり犬の自然さを損なわないよう努めることです。
「最低限」「出来る限り」のラインを緩めることを自分に許した時点で、「自然でしあわせな犬」という選択肢は消えてしまうのだと肝に銘じてください。
「自然でしあわせな犬」というあり方は、わたしたちが暮らすこの社会の中では「自然な」状態としては存在しえないのです。
あなたが意識してそれを求める限りにおいてのみ存在し、あなたの意志だけがよりどころとなる、不安定なあり方であることを忘れないでください。


おさんぽに話を戻せば、自然に動ける環境を整えても自由に動こうとしない犬というのは、「最低限」のラインを大きく踏み越えた介入がなければ完成しないものだとわたしは考えます。
その子のためを思って一生懸命手をかけ、困難を乗り越えてきた日々が、その子に最低限以上の暴力を加え、自由を侵害し続けた日々であったなどということは、 犬を愛する多くの飼い主さんにとって、正直なところ受け入れがたい結論であると思います。
しかし、この結論から目を背ける限り、あなたとあなたの犬にとっての選択肢は、この先もずっと自然でふしあわせな犬と不自然でしあわせな犬のふたつだけです。
勇気を出して選択肢を変えましょう。

不自然でしあわせな犬と、自然でしあわせな犬、あなたはどちらを望みますか?
あなたの犬はどちらを望むのでしょうか?

わたしはひとりでも多くの方が「自然でしあわせな犬」を選んでくださることを望みます。
犬として犬らしく生きることを許された犬が一頭でも増えていくことを望みます。
自分の価値観を転換することは大きな苦痛をともないますが、思い切って変えてみると、その先にはそれまで知らなかった自由な世界が立ち上がってきます。
解き放たれた犬は、それまであなたが知らなかったさまざまな仕草、表情を見せてくれることでしょう。

もしあなたが「自然でしあわせな犬」と生きていくことを決めたら、その時からあなたと犬とのあたらしい日々がはじまります。
過去を取り消すことはできませんが、大切なのは「今ここに至るまで」の介入の影響を乗り越え、「今ここ」で犬の自由を可能なかぎり実現することです。
犬の一生は長くはありません。 くよくよしたり、落ち込んだり、言い訳したりする時間があったら、気持ちを切り替えておさんぽに行きましょう!

強制訓練で行動が形作られている犬の場合、そもそも楽しくていい子にしていたわけではないので、「好きに動いても嫌なことは決して起こらない」と分かった時点で、安心した犬は自分から動き出してくれることでしょう。
ほめるしつけの場合は「いい子にしてたらいいことがあるかも?」という可能性が捨てきれないので、自由に動き回るようになるまでには、強制訓練を受けていた犬よりも長い時間がかかるかもしれません。
これまで与えてきた「いいこと」以上の楽しさを、自然の中から犬が見つけ出してくれることを願いましょう。
その日が来るまで、根気よく自然散歩のおさそいを続けていくことです。

待ちきれなくなって、ついついこれまでのようにおさんぽをしたくなったら、慣れ親しんだ合図を出す前に深呼吸しましょう。
深呼吸の間に、犬が犬としてしあわせであることが犬と生きることを決めた自分のしあわせでもあるのだと、「いい子であるその子」ではなく「その子」が大好きなのだ!と、自分自身に言い聞かせましょう。

いざ犬が自由に動き出すようになったら、「いい子」時代に比べて人の思い通りにいかないことばかりです。
自由に動いてほしいのに動いてくれないその子と向き合う時間は、いつの日か自然散歩を満喫するためのちょうどよい練習になります。
思い通りにならない相手をそのまま受け入れることができたら、自然散歩までの時間はきっともうすぐですよ。