おさんぽで、首がしまることは、もうない。
自ら手織りした布を用い、わんちゃんの心と体に負担をかけにくい形のハーネスをオーダーメイドで製作しています。 のんびりゆったりおさんぽできる3mリードもおすすめです。

犬のしあわせって?

 

犬を家庭に迎えた日を思い出してください。

「この子をしあわせにしたい」と思ったのではないでしょうか。
漠然とでも、しあわせな犬としあわせな自分の、なにかキラキラした未来をイメージしたのではないでしょうか。
少なくとも「この子を不幸せにしたい」と望んで犬を迎えた方はいないと思います。

「しあわせ」とはなんでしょう。
古来より、多くの思想家・哲学者・宗教家たちがこの問題に取り組んできました。
「しあわせとは何か?」を考えることを自らに課した思想家たちでなくても、それぞれの人がそれぞれの経験・価値観・嗜好に基づき、しあわせについての何らかの意見を持っているはずです。
しかし、「今わたしはしあわせだ」ということはできても、「これがしあわせだ!」と明確に提示することは難しいと思います。
「しあわせとは何か?」という問いは、ある意味「世界をどう捉えるか?」ということと同義です。
何らかのもっともらしい意見があっても、それとは両立しない別のもっともらしい意見が必ずあります。
そこで何を見出そうと、あるいは信じようと、それは「しあわせとは何か?」という問いを解いたことにはならず、あくまでも世界を把握する上での自らの立場を選択したにすぎません。
犬どころか人間にとってのしあわせすら、それが何かというはっきりした答えがあるとは言えないのです。

何がしあわせであるか決定的な答えは出せずにいるにしろ、「しあわせになりたい」「不幸せになりたくない」という思いは、多くの人間たちにとって共通するものです。
「しあわせでなくてもいい」「不幸せになってもいい」という人はいるかもしれませんが、「絶対に不幸せになりたい」という人はおそらくいないのではないでしょうか。
長い人類の思索の歴史の中で、少なくともお互いの明らかな不幸せだけは避けるべく、ひとつの合意が成立してきました。
人間は生まれながらに人間としてしあわせに生きるための権利を持っている、という考え方です。
この権利は「人権」と呼ばれています。

人権思想は主に国家権力とのたたかいの中で形成されてきたものです。
そのため、権力により個人のどのような権利・自由が侵害されてはならないのかを明らかにする形をとっています。
1948年に採択された世界人権宣言(こちら)をご覧ください。
この宣言は「人権」という考え方が初めて公式に宣言されたものです。
生命・自由・安全にはじまり、苦役や拘束を強いられないこと、政治に参加すること、教育を受けること、思想・宗教・国籍選択などの基本的な項目が列挙され、「すべて人は、その人格の自由かつ完全な発展がその中にあってのみ可能である社会に対して義務を負う(第29条)」とされています。
時代によって人権として認められる項目には細かな変遷がありますが、根本的な原則はここに宣言されたものから変わりありません。

世界人権宣言には法的拘束力はありません。
しかし、多くの国で人権思想にのっとった憲法が施行されており、それらの憲法は法的拘束力を持ちます。
日本国憲法にも基本的人権の尊重が明記されていますね。
国民にとって素晴らしいことではありますが、日本に限らず、法的に規制されたからといって必ずしも人権が守られるわけではないというのも事実です。
「人権」という概念自体を受け入れていない国や地域もあるでしょう。
人権は、人間が人間としてこの世に生まれたということで、すでに持っているものであるとされています。
誰かから与えられるものではないということは、自らの人権は自らで守らなければならないということでもあります。
「人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない(第1条)」とされている通り、自らの人権についてはもちろん、自分以外の人間の置かれている状況にも関心を向けなくてはならないということです。
たとえ現状が完全なものでなかったとしても、そのことによって「すべての人民とすべての国とが達成すべき共通の基準(前文)」として宣言された「人権」の理念が色あせるものではないとわたしは思います。

人間は人間として人間らしく生きる権利をもつものだという人権思想は、現代国際社会においておおむね共有されています。
人間は「人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的もしくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる自由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる(第2条)」(はずな)のです。
このことは人間がしあわせに生きることを保証するものではありませんが、人間はしあわせに生きるための基本的な権利を侵害されることはない(少なくとも侵害されるべきではない)と認めるものではあります。
「何もないけどしあわせなの」という人でも、人間として生き、しあわせについて語っている以上、そうとは意識せずに持っているものが3つあります。
いのち、知覚、人権です。

いのちがなければ、しあわせであれ不幸せであれ、何らかの状態になるということがそもそもありません。
何らかの状態にあるためには、生きてこの世にある必要があります。
生まれる前(少なくとも受精前)には存在自体がこの世にありません。
死んでいる状態でこの世に存在している時間はしばらくありますが、その間どのような状態に置かれているのであれ、死んでいる本人にとってはしあわせも不幸せもないことでしょう。
また、いのちがあり、何らかの状態でこの世に存在していても、意識や感覚がなければその状態がどのようなものであるか感じることは出来ません。
意識や感覚があるかないかというのは外部から簡単に伺い知れることではなく、安易に有無の判断は下せませんが、意識・感覚が本当にないのであれば、その人がしあわせ/不幸せを感じることはないと言ってよいでしょう。
いのちと知覚はしあわせを感じるための、言わば土台です。
それらがなければ不幸せになることはないでしょうが、それらがあるからといって必ずしもしあわせであるとは言えません。
いのちがある(存在している)状態が、いのちがない(存在していない)状態にくらべて「しあわせである」とは言えないのです。
いのちがあり、意識・感覚を持っていれば、自らの置かれた状態に対して何らかの知覚を得ることでしょう。
その知覚をもとに、人は自らがしあわせ/不幸せであるとの判断をすることになります。
何をもって自らのしあわせとし、不幸せとするかについては、最初に書いたとおり絶対的な答えというものがあるわけではなく、それぞれの価値観にゆだねられています。
それでも、その人が人間である限り、人間としてしあわせに生きるための最低限の自由、自らをしあわせにしようとする最低限の権利は認められているわけです。
少なくとも理念上は認められており、その理念はある程度社会に効力を及ぼしています。
「何もなくてもしあわせ」という人も、奴隷のように働かされたり、生命を脅かされたり、差別や迫害を受けたり、衣食住に困ったりするような状況に置かれたら、なかなか「しあわせだ」とは言っていられないのではないでしょうか。
人権が認められているからといってしあわせになれるわけではありませんが、人権が認められない中でしあわせになることは非常に困難です。
まして、はっきりと人権が侵害される事態に直面したら、どのような価値観の持ち主であれ、しあわせを感じることは不可能に近いと思います。
知らず知らず、わたしたちは「人権」という概念に守られているのです。

ここまで人間のしあわせを中心に話してきました。
では、犬にとってはどうでしょう。
生きてわたしたちの前にいる犬にはいのちがあります。
特殊な場合を除き、ほとんどすべての犬が意識や感覚を持っています。
ただ、犬は人間ではありませんから、人権はありません。
「人」間が人間としてしあわせに生きるために生まれながらに持っているとされる権利だから「人権(human rights)」なのですから、言葉上もこのことには違和感がありません。
「人」権ではないにしろ、犬をはじめとする人間以外の動物は、動物としてしあわせに生きるために生まれながらに「動物の権利(animal rights)」を持っているとは考えられないのでしょうか。
長いこと、この答えは「動物は権利を持たない」でした。
「人間以外の動物は、その人格の自由かつ完全な発展がその中にあっては不可能である社会に対しても義務を負う(第29条改変)」ことを当然とされてきたのです。
この部分の「人格」は英文では "his personality" です。
人間以外の動物は、神に似ていないという理由で、言葉を持たないという理由で、あるいは生きた機械だからという理由で、権利を持つに値する "personality" を持たないものだと判断され、人間によって支配・利用されるべき存在だと捉えられてきました。
少しずつ「動物にも権利がある」という意見も出てきてはいますが、人権のように社会の共通理念として受け入れられるには至っていません。
しかし、人間が「人権」なしにしあわせになることが難しいのであれば、人間以外の動物も「動物の権利」なしにしあわせになることは難しいのではないでしょうか?

人権思想自体が、人類の歴史の中では新しい思想です。
動物も権利を持つという考え方は、それよりももっと新しいものです。
動物の権利が問われるようになるまでの長い時間(多くの場合は今でも)、動物はしあわせに生きる必要のある存在だとはみなされてきませんでした。
たしかに動物は人間と同じような形では言葉を持っていません。
自らの置かれた状態を「しあわせ」という言葉で把握することはおそらくないでしょう。
だからといって動物にしあわせ/不幸せがないものと言えるでしょうか。
わたしの答えは、そしてこれは動物の権利について議論を展開してきた学者たちの答えでもありますが、 言葉・思考の有無に関わらず、動物には快/苦の感覚があり、より多くの「快」を得ることはその動物の利益(しあわせ)に繋がる、というものです。
人権と同じような意味で、動物にも固有にして不可侵の「権利」があるかどうかという問題は、動物の権利論者の中でも意見が分かれています。
ここでは深入りしませんが、動物の権利運動には、動物のしあわせは人間のしあわせと等しく考慮に値するという立場と、動物には人間と同じくしあわせに生きる権利があるとする立場とのふたつの流れがあります。
「動物の権利論」としてまとめられることが多い両者ですが、この差異を重視する際は、オーストリアの哲学者ピーター・シンガーに代表される前者を「動物の解放論」、アメリカの哲学者トム・レーガンに代表される後者を「動物の権利論」として区別することもあります。
シンガー、レーガン、ともに存命の人物です。
この一事をもってしても「動物の権利」という概念がいかに新しいものであるかがお分かりいただけると思います。
動物の権利論はまだまだ発展の途上にある思想なのです。
いずれにしても、動物に快/苦の感覚がある以上、「快」がより満たされるよう、より損なわれないようにされるべきであり、「苦」は出来るかぎり避けられるべきもの、あえて与えるべきでないものであるとの見解については両者は一致しています。
突き詰められた問題に対峙したとき、どちらの立場に身を置くかによって、「より」「出来るかぎり」「あえて」の具体的な位置づけが変わってくるわけです。
意図的な混同が学問的に望ましいことであるとは思いませんが、ひとまず以下では、文字通りに動物の権利を守ることに加え、動物のしあわせに配慮することも「動物の権利を守ること」として扱っていきたいと思います。

さて、動物にも快/苦の感覚があることを認めるのならば、動物にはしあわせ/不幸せという状態があることになり、しあわせ/不幸せという状態があるのであれば、仮に意識的にそう考えることがなかったにしろ、動物は本性上しあわせに生きることを望んでいると考えることが出来るでしょう。
動物にはしあわせ/不幸せがあるとした上で、犬に話を戻しましょう。
動物の権利について考えたことがない人が、目の前にいる自分の犬をしあわせにしたいと思うことはおかしなことではありません。
しかし、犬を本当に「しあわせにしたい」と考えるからには、動物の権利について考えることを避けて通ることはできません。
何故なら、犬を「しあわせにしたい」わたしたちの思い描く「しあわせ」が、犬にとっての「しあわせ」であるかどうか、犬でないわたしたちには分からないからです。
わたしたちは犬をしあわせにしたいと思っています。
犬もまた、しあわせであることを望んでいます。
それでも、わたしたちが犬の「しあわせ」とは何かをきちんと見定めない限り、その犬がしあわせになることはないでしょう。
偶然しあわせになることがないとは言い切れませんが、「わたしたちが」その犬をしあわせに「する」ことはないと断言していいと思います。
自分の思う「しあわせ」を相手に押し付けることは、相手をしあわせにすることでは決してありません。
たとえば、かわいくておりこうな犬と楽しく暮らしたい!というのは、わたしたちが求めるしあわせの形であって、犬が求めるしあわせではないのです。

人間どうしでも、隣の人が何によってしあわせを感じるのかどうか、本当のところは分かりません。
好きなものを知り、それによって瞬間的にしあわせを感じることを知っても、その人を「しあわせにする」方法までは分からないでしょう。
そもそも「しあわせとは何か?」という問いに明確な答えが見つかっていない以上、他者を意図的に「しあわせにする」ことは実際のところ不可能です。
一方で他者を「不幸せにする」という方法というのは、案外簡単に思いつくものです。
思いっきり相手の人権を踏みにじるような言動を取ればよいのですから。
わたしたちがしあわせを願う相手に対して確実に出来ることは、せめて明らかな「不幸せにしない」よう、相手の人格を尊重し、人権を守ることだけではないでしょうか。

相手が犬であっても同じことで、わたしはわたしの犬が瞬間的にしあわせを感じるものをいくつか知っていますが、だからといってその子を「しあわせにする」方法を知っているとは言えません。
人間の、つまりは自分の「しあわせとは何か?」すら分からないのに、犬の「しあわせとは何か?」が分かると言えるでしょうか。
わたしたちは犬を「しあわせにする」ことは出来ないのだと、自らの力の限界を認めるべきでしょう。
しかし、犬をしあわせに出来ないことを認めた上で、犬を「不幸せにしない」方法であれば考えることが出来ると思います。
わたしたちがお互いの人権を認めることでお互いを明らかな不幸せから守っているように、犬に「動物の権利」を認め、明らかな不幸せから犬を守るのです。
それが何かは分からないにしても、少なくとも犬のしあわせが実現される機会を奪うことのないよう、犬の犬としての "personality" を尊重するのです。
そうすれば、犬を必ずしあわせにできるとは限らなくても、明らかな「不幸せにしない」ことだけは出来るに違いありません。
そしてこれは、犬のしあわせを知らずに犬のしあわせを願うわたしたちにとって、何よりも嬉しいことなのではないでしょうか?

「人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない(第1条)」 と、世界人権宣言は謳います。
これまで人間は、動物を「同胞」とは認めてきませんでした。
たしかに動物は人権を尊重してはくれず、その意味で「互いに同胞の精神をもって行動」することもしてくれません。
動物の権利を守ることで、人間にとってなにかメリットがあるのでしょうか。
動物に対して残酷にふるまう人間は人間に対しても残酷にふるまうようになる、という言い方は出来ると思いますが、それは可能性にすぎません。
わたしたちが犬を愛するように、いずれかの動物を愛する人にとっては、その動物がしあわせになれる、少なくとも明らかな不幸せに陥らずにすむということは自分のしあわせにも通じると思います。
しかし、「動物の権利」という以上、考えられるべき「動物」とは犬をはじめとする特定の動物のことだけではありません。
人権がいかなる人間であっても等しく認められるものであるように、動物の権利もまた、いかなる動物であっても等しく認められるものでなければ理論として不完全なものになってしまうでしょう。
そう考えると、動物全般を考えたときに「これだ!」と明らかに示しうる具体的なメリットは乏しいと言わざるを得ません。
むしろ人間が自らの権利を制限することによってしか、動物の権利を守ることが出来ないケースが多々あることと思われます。
でも、考えてみてください。
人権宣言は権力に対し人が人としてしあわせに生きる権利を侵害することを禁ずるかたちを取っていました。
人間に対し、人権を認めるかわりに権力の権利(というものがあるかどうかは別にして)を守るように求めてはいません。
意図するしないに関わらず、人間の社会の中では、ということはほぼ同義でこの世界にあっては、人間は動物に対して権力者の位置にいます。
権力者たる自らに対し、権力の行使を禁じることは出来ないのでしょうか。
人間が本当に「理性と良心とを授けられて」いるというのなら、動物に対して何の代償も求めることなく、動物が動物としてしあわせに生きる権利を認めることは出来ないものでしょうか。

「出来る」と答えられる人間でありたいとわたしは思います。
そして、犬を「同胞」として家庭に迎え入れた人間たちは、たとえ最初は犬に対してだけであったとしても、この問いに「出来る」と答えることになるだろうと信じます。
ひとつひとつの「出来る」の積み重なりが、犬にとって、やがてはすべての動物たちにとって「しあわせ」になれる世界を回復していくことに繋がるのだとわたしは信じ、また、そうなっていくことを心から望んでいます。